曲目紹介

シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 作品54


 ロベルト・シューマンは1810年、ザクセン王国(ドイツ東北部)のツヴィッカウに生まれた。父は書店兼出版社を経営、著作や編集もしていた。音楽への理解もあり、ロベルトは影響を受け文学、音楽を愛好した。父が死去し母の考えからロベルトはライプツィヒ大学の法科に進むが、パガニーニの演奏がきっかけで音楽に専念することを決意する。これが30年、ロベルト20歳の時で、母はピアノ教師フリードリヒ・ヴィークに助言を求め、ヴィークはロベルトの才能と将来を保証した。ヴィークの元で本格的にピアノを学び始めたが、翌年には指を傷めて奏者の道は断念し作曲家として進むことになる。一方、父譲りの文筆・編集の才も発揮され、32年にはショパンを「諸君、脱帽したまえ、天才だ」と新聞への投稿で紹介し、34年には雑誌「新音楽時報」の創刊に関わり、43年まで主筆として活躍している。
 将来の妻となるクララは、師ヴィークの娘である。28年、9歳でライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と共演しピアニストとしてデビューした天才少女とロベルトの関係は35年ごろから始まったが、父ヴィークは、演奏家を諦め作曲家としても実績のないロベルトに娘を嫁がせる気はなく、色々な手を使い二人の間を裂こうとした。しかし二人の決意は固く、39年に訴訟を起こし1年後に結婚が認められた。
 結婚後、バッハやベートーヴェンの研究を行いその成果が管弦楽作品に結実し41年に交響曲第1番、ニ短調交響曲(後年改訂され第4番となる)と共に作曲されたのが「ピアノと管弦楽のための幻想曲」で、この曲を第1楽章として、4年後に協奏曲として完成したのが本日演奏するピアノ協奏曲 イ短調である。
 協奏曲はオーケストラの短く鋭いミの8分音符に続き、ピアノの付点リズムの強奏で勢いよく始まる。すぐにオーボエが主題を提示するが、これはロベルトが評論の中で設定した架空の「ダヴィッド同盟」中の人物で、キアリーナ(クララから作られた名)からC-H-A(ド-シ-ラ)の音をメロディにしたとされる。この下降モティーフは第1楽章中頻繁に現れ、第2楽章では上昇型となって優美で軽やかな主題を形成する。第2楽章から第3楽章にかけてはモティーフがイ長調のド#-シ-ラに変化し雄大な第3楽章へと切れ目なく入って行く。
 元となった「幻想曲」だが、骨格は協奏曲に継承されているものの、ピアノの序奏でオーケストラがミの音を延ばし続けたり、クラリネットのメロディの延ばし部分が分散和音になっていたり、オーケストラの音が多めである。ピアノも各所で異なっており、カデンツの大部分は同じだが最後のオーケストラへの引き継ぎは別物である。協奏曲は、元の幻想曲の自由な雰囲気を残しながらもよりまとまっており、そこここに推敲の跡がある。
 ロベルトは、43年にオラトリオ「楽園とペリ」の成功によって作曲家として名を轟かせたものの、幼少時から高名なクララへの負い目や、ライプツィヒやドレスデンで指揮者の職が得られなかったこともあり精神的に追い詰められて行く。そこへ、デュッセルドルフでの音楽監督職がオファーされ、シューマン一家は転居する。気候や音楽界の環境が変わり交響曲第3番(通称「ライン」)など新境地を開き、53年に当時20歳のブラームスの訪問を受け10年ぶりの新音楽時報への寄稿「新しい道」でブラームスを世に紹介した。しかし翌年には幻聴などの症状が悪化しライン川に入水、助けられボン近くの療養所に収容される。初期は外出もできるほどであったが次第に症状が悪化し、2年後の56年に46歳で生涯を閉じた。
 クララはロベルトの死後40年生き、夫の作品を積極的に取り上げ、出版時に校訂をして、演奏者のみならずシューマン作品解釈の権威としても活動した。76歳で亡くなりボンのロベルトの墓所に埋葬されている。

トランペット T.O


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