「ボレロ」「ラ・ヴァルス」「ダフニスとクロエ」「亡き王女のためのパヴァーヌ」と数々の名曲を遺し、また「展覧会の絵」の編曲など卓越した管弦楽法で「管弦楽の魔術師」とも呼ばれたラヴェルは、1875年スペイン国境に近いフランス南西部の低地ピレネー地方シブールで生まれた。この地は仏国領内バスクでもあり、仏領と呼ぶこと自体が論議ともなる可能性がある地域である。
父ジョゼフはスイス出身の発明家兼実業家、母親はこの地のバスク人で母親の歌うバスク民謡を通じ、スペイン音楽やバスク音楽に対する親近感を持ち「スペイン狂詩曲」なども作曲している。1873年のウィーン万博を訪れたブラームスが日本文化に触れる機会をもったのと同様に、1889年のパリ万博はドビュッシーやラヴェルらパリにいた作曲家にも東洋イズムの影響を与えた。その結果も少なからず影響し、この2人はフランス印象派音楽を代表する作曲家、ひいてはフランス音楽の代表格のように言われるが、ラヴェルを「フランス人作曲家」としてそのように言い切って良いのか甚だ疑問である。彼の血縁だけの理由ではなく、ユニークな和声、リズムから来る特異性、華麗過ぎるオーケストレーション効果から、他のフランス音楽と完全に一線を画している、いわば「コスモポリタン」と思われるからである。彼は万博の年、14歳でパリ音楽院へ入学。しかし入学後「優等生」ではなく、度重なる遅刻などから単位を落とした。学業レベルを遥かに超えた先進的な和声を研究していたという説もあり面白い。
1895年、彼が20歳の学生だった時、ピアノ曲として発表したデビュー曲がこの「古風なメヌエット」。
仏語の“antique”(とても古い、古代の)」というこの言葉、19世紀迄はギリシャ、ローマ時代のものに対して使っていた。元来18世紀の古典舞曲である「メヌエット」に、この形容詞を付けるとは、そのセンスにはアイロニーも感じられ、ユニークな味わい深さと彼の才気を感じてしまう。そして彼はこの年、一度パリ音楽院を退学してしまう。その後、フォーレ(仏語での発音はフォレー)ら、彼の才能を認める先生たちの支援で音楽院に復帰する。ローマ賞に5回挑戦し落選、擁護者の抗議がパリ音楽院長を辞任に追いこむ「ラヴェル事件」も起こった。第一次世界大戦には小柄な体格(160cm、49kg)や虚弱体質のため、志願した飛行士には成れずトラック輸送兵として参戦、また大戦で失った友人や母への想いをこめた「クープランの墓」を発表。1928年の米国演奏旅行は大成功で、名声は世界中に鳴り響き、その直後代表作となる「ボレロ」を発表している。
「古風なメヌエット」のオーケストラ編曲が行われたのは、発表から34年も経った1929年、54歳の時で、故郷のバスクに夏・秋と滞在した年だった。その時に「展覧会の絵」にも「ボレロ」にも改定を加えた。
その後、記憶障害や言語症に悩まされたり、タクシー移動中にパリで事故に遭ったり、脳外科手術を受けたり、けして幸せな晩年でなかった。古典的な形式美を尊重しつつ、「魔術師」と迄呼ばれた見事な楽器法により、ユニークで斬新な響きをもつ管弦楽の傑作を多数世に残した彼は、この曲でも独特な響きの世界を創造する。
作品は3拍子の優雅な舞曲となっており、メヌエット→トリオ→メヌエットという、A→B→Aの古典派時代の形式に倣って作曲されている。A部はマエストソ(荘厳に)で、嬰へ短調。冒頭からシンコペーションを多用した切れのあるリズム。B部は、明るい長調に転じて、クラリネットやオーボエ、ホルンのメロディーを中心にファゴットが絶妙に絡む木管アンサンブル。♯が6つも付いた嬰ヘ長調のこのB部は、A部よりもほんの少しながらテンポをアップされているのは隠し味でもある。また、オーケストラ版では元のピアノ版には無かった金管楽器による信号ラッパを加え、ユニークなエスプリ効果が出ている。初演は1930年パリで、作曲者自身がラムルー管弦楽団を指揮した。34年も経っての管弦楽化には自身のデビュー作品への特別な愛着が感じられる。ラヴェル最後の管弦楽単独作品で、これ以降には2曲のピアノ協奏曲とオケ伴奏による歌曲集「ドゥルシネア姫に心寄せるドンキホーテ」のみしか書かれていない。作曲家人生の「最初と最後」を飾る、彼本人にとっても記念碑的な愛すべき作品なのであった。
H.O