曲目紹介

ハイドン:交響曲第101番「時計」


 古典派を代表するオーストリアの作曲家であるフランツ・ヨーゼフ・ハイドンは、数多くの交響曲を作曲したので、交響曲の父と呼ばれています。1732 年に音楽家の家庭に生まれ、叔父にその才能を見出されたことから音楽家としてのスタートを切りました。生涯の大半をエステルハージ家に仕え、ここで多くの作品を生み出しました。ハイドンの人気は高まり、徐々に出版のための作曲なども手がけるようになりました。しかし、1790 年のニコラウス・エステルハージ公の死去により大きく変わります。新しい公爵は音楽に興味を示さず、名ばかりの宮廷楽長の称号を与え、オーケストラを解散させました。そんな折、ロンドンで音楽興行師として名を成していたザロモンと出会い、ハイドンは英国へと渡ることを決意します。ザロモンが企画したハイドンのロンドン訪問は大成功を収めました。
 ハイドンの100 曲を超える交響曲の中で、最大の傑作である交響曲第101 番『時計』は、1794 年ロンドン訪問の折に作曲されました。円熟期にあったハイドンの魅力がたっぷりと詰まった作品です。『時計』の愛称は2楽章の「カチ・カチ・カチ・カチ」という伴奏が、規則正しい時計のリズムを連想されることから名付けられたもので、このメロディーは様々な機会に耳にします。厳密な形式構成のなかに音楽が歌い進められてゆくハイドンの音楽には、18 世紀のウィーン古典派が目指した楽曲の典型を見ることが出来るのではないかと思います。
 ところで、ハイドンの成功を思うとモーツァルトの事を思い出さずにはいられません。ハイドンより24 歳年下のモーツァルトは、同時代のオーストリアの作曲家で、やはり宮廷音楽家の出身であり、ハイドンと互いに尊敬しあっていました。35 歳の若さでモーツァルトは亡くなったのに対し、ハイドンは倍の77 歳まで生き、安定した絶大な人気を誇りました。実はハイドンを英国へと招いたザロモンはモーツァルトとも契約しようとしましたが、それは果たされませんでした。ハイドンが初めて英国に渡った1791年の冬にモーツァルトは亡くなっています。英国で莫大な富と名声を手にしたハイドンと、貧困の中、若くして亡くなったモーツァルト。2 人の人生は大きく異なりますが、宮廷や教会の専属であった音楽家たちが独立して、自由な芸術家になろうとしたロマン派へと動いていく世の中の流れを感じずにはいられません。

第1楽章 Adagio – Presto ニ長調
序奏つきソナタ形式。主部に入り最初にヴァイオリンが奏でる第一主題が楽章の中心。

第2楽章 Andante ト長調
主題と4つの変奏。『時計』を思わせるハイドンが書いた最も有名な緩徐楽章。

第3楽章 Menuetto. Allegretto ニ長調
堂々としたメヌエットの後、トリオではフルートが印象的な旋律を吹く。

第4楽章 Finale. Vivace ニ長調
自由なソナタ形式。

C.M.


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