ドミトリー・ショスタコーヴィチは、1906年9月25日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルグに生まれました。13歳で母の母校であるペテルブルグ音楽院
に入学。卒業作品として書かれた交響曲第1番で華々しいデビューを飾りますが、その後の作曲家人生は、ソビエト共産党からの変転する評価に奔走されること
になります。1936年、ソビエト共産党機関紙「プラウダ」が、歌劇『ムツェンツク郡のマクベス夫人』を痛烈に批判する論文を掲載。社会主義体制の中では簡潔・明確・
真実を主題にした作品がのぞましく、「形式において民族的、内容において社会主義的であるべきだ」との指摘を受けます。当時、スターリンによる独裁政治が行
われていた共産国家ソビエトにおいて、党から批判されることは芸術家としての生命が断たれること、場合によっては粛正すら意味していました。
この批判後、社会主義芸術家として自分のとるべき方向性を追求した彼は、批判前に作曲しリハーサルまでしていた交響曲第4番の初演を撤回。批判を受けた「形式主義的偏向」をあたかも清算するように書かれた交響
曲第5番を発表します。以降それまでの作風から一転し、党が求める社会主義リアリズムの路線にあう作品を発表し続けます。さらに1948年、ソビエトの作曲家のほとんどが批判された「ジダーノフ批判」が行われると、
オラトリオ『森の歌』や映画音楽『ベルリン陥落』、カンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、あからさまに当局に迎合した共産党賛美の作品を多数発表。国内での名誉を回復します。
祝典序曲は、1954年11月6日、ロシア革命37周年記念演奏会で初演されました。ソビエト共産党中央委員会からの委嘱を受け、数日で仕上げられたと言われています。折しもスターリンの死の翌年であったことから、スターリン体制からの解放を密かに祝って作曲されたのではないかと訝る向きもありますが、真相は定かではありません。
作品は、金管楽器による明るいファンファーレで始まり、その後、ホルンとヴァイオリンの伴奏にのせてクラリネットが快活な旋律を奏でます。弦のピッツィカートと金管楽器、ヴァイオリンと木管楽器、中低音と
他の楽器のかけあいが続き、やがてチェロとホルンによる叙情的な副旋律を経て、作品は快活に展開していきます。最後はホルン4、トランペット3、トロンボーン3が加わり、冒頭のファンファーレがより力強く歌われ、さらに急速で圧倒的な終結部で結ばれます。
シンプルで明るい《祝典序曲》ですが、自らが求める音楽と体制が求める音楽との間で葛藤した作曲家の姿を想いながら、聴いていただければと思います。
M.S.