ワルツ王と呼ばれるシュトラウス2世が生まれたの
は音楽の都ウィーン。彼の音楽はどれも、舞踏会で
流れる、陽気で華やかな音楽とだけ思われがちだが、
当事のオーストリー・ハプスブルク大帝国の首都
ウィーンの「光と影」の両方の部分と切り離しては語
れない。生まれた年の1825 年には、ナポレオン失脚
後の戦乱で荒廃し、まだまだ復興進まない欧州であっ
た。そんな中、シューベルト、ベートーヴェンもウィー
ン在住でまだ活躍していた頃である。
カドリーユとは、男女2名ずつ4人で踊る音楽だが、
この曲自体は、当時流行していた旋律のオンパレード=
メドレーになっている曲で、以下のような有名な曲が散
りばめられている。
・メンデルスゾーン:「結婚行進曲」/モーツァルト:
交響曲第40番第1楽章
・ウェーバー:歌劇「オベロン」からのアリア/
ショパン:ピアノソナタ第2番のメロディー
・パガニーニ:バイオリン協奏曲から「鐘」/マイア
ベア:歌劇「悪魔ロベール」からのアリア
・エルンスト:「ベニスの謝肉祭」/ウェーバー:歌劇
「魔弾の射手」からのアリア
・シュルホフ:「羊飼いの歌」/シューベルト:
合唱曲「反抗」から「茂みと枝の中と通り抜け」
・モーツァルト:歌劇「魔笛」からパパゲーノの
アリア「私は鳥刺し」
・ベートーヴェン:「トルコ行進曲」/バイオリンソナ
タ第9番「クロイツェル」第2楽章
カメラはもうあったので、シュトラウスがブラームス
と一緒に立っている写真など後世に残っているが、エジ
ソンの蓄音機の発明は未だの時代である。有名な曲を集
めて作曲すると言っても、どう集めたのだろうか?
彼が率いる楽団が舞踏会でリクエストがよくかかる曲
を選んでつなぎ合わせて、その場での即興も交えてどん
どん演奏しているうちに1つのパターンの曲として確立
していった可能性はある。デスクで作曲するばかりでは
ないのである。もちろん当時は著作権など無い時代だっ
たので、その手の問題も余りなかった。「演歌ちゃんちゃ
かちゃん」の19世紀ウィーンヴァージョンとでも言う
べきか。
作曲されたのは1858 年。大帝国の首都ウィーンは、
プロイセンとの敗戦もあり、かつての隆盛から斜陽になっ
ていて、都市城壁を壊してリング通りにしてしまおうと
していた頃。日本では安政5年。井伊直弼が大老になって、
安政の大獄を始めた年で、篤姫が輿入れした13代将軍
家定が死去した年でもある。
2006 年のニューイヤーズコンサートでマリス・ヤン
ソンスの指揮で初めて取り上げられ、それ以来、日本で
も演奏回数が増えてきた。ウィーン在住時代にはエルマ
イヤー舞踏学校に通ってウィンナワルツも習った筆者で
はあるがカドリーユまではやらなかったので、どんなス
テップの踊りか不明であり見てみたいものである。
H.O.