チャイコフスキーは、1840年、ロシアのウラル地方ヴォトキンスクで鉱山技師の次男として生まれた。幼い頃から音楽的才能を発揮していたものの、父親は彼を法律学校の寄宿生として入学させた。法律学校卒業後は法務省の職員として働きながら音楽教室に通っていたが、結局安定していた役人職を辞め、その後正式な音楽院生となり、23才にして音楽家としてのスタートをきった。
ピアノ協奏曲第1番は、1874年11月〜1875年2月、34才のときに作曲された。もともとこの曲は友人のピアニストであるニコライ・ルービンシュタインに献呈するものとして書かれた。しかしニコライの評価は「無価値で演奏に値しない作品だ、各主題に関連性もなく、曲全体にまとまりもない、構成もよくない」という酷いものであった。チャイコフスキーは大変傷つき、ニコライへの献呈をとりやめ、1875年5月、ドイツの指揮者兼ピアニストのハンス・フォン・ビューローへ送った。ビューローは「大変魅力的で素晴らしい作品だ」と喜び、チャイコフスキーにお礼として感謝の手紙が送られてきた。
初演は、1875年10月25日ボストンで、ビューローのピアノ演奏と指揮により行われ、大成功であった。このときに、ニコライもこの協奏曲の素晴らしさを見なおし、過去の評価の誤りを認め、その3年後にニコライ自身のピアノによりこの協奏曲が演奏され、チャイコフスキーは大いに満足した。
チャイコフスキーは3曲のピアノ協奏曲を作曲しているが、この第1番が今日最も多くのピアニストが演奏する曲である。第1楽章冒頭は、誰もが一度は耳にしたことがあるフレーズで、オーケストラの旋律の伴奏とは思えないほどのピアノの和音が印象的である。
【第一楽章】ソナタ形式であるがかなり自由な形である。管弦楽の前奏の後、ピアノの重い和音が力強く響くなか、ヴァイオリンとチェロの演奏によっていかにもロシア的なのびのびとした主題が始まる。
【第二楽章】8分の6拍子のなだらかなリズムに乗って、しなやかな旋律を主題としている。ピアノパートはすっきりとひかえめに、オーケストラも軽くなっている。
【第三楽章】雄大なスケールを持ち、独奏ピアノの華やかなヴィルトゥオーソ的技巧が発揮される。形式はロンド形式で全体が激しいリズムにあふれている。
C.I.