曲目紹介

ラヴェル 「ボレロ」


 モーリス・ラヴェル(1875-1937)はスイス人の父とスペイン人の母の間に生まれたので厳密にフランス人というわけではないですが、生まれてすぐパリに移り、生涯パリジャンを自認していました。おしゃれで、自宅でもネクタイを締め、演奏旅行ではシャツだけでスーツケース1つにもなったそうです。音楽では、特にオーケストレーション(メロディを管弦楽に展開する手法)に秀でていたとされ、本人も自分はメロディを作るのは苦手と言っていて、モーツァルトやシューマン、ウェーバーなど、メロディックな諸先輩の音楽を愛していました。しかし早くから才能が開花し、23歳のときに「古風なメヌエット」が出版されています。25歳のときから作曲家の登竜門とされるローマ賞に応募しますが最高でも2位、結局5度挑戦して30歳のときには予備審査で落選するという苦汁を嘗めます。しかしこの落選は、実績ある作曲家が落とされるのは審査に問題があるとして事件になり、パリ音楽院院長の引責辞任にも発展します。一方、本人はいたって冷静だったそうで、後年この賞の審査員を引き受けています。
ラヴェルは生涯独身で、音楽的な派閥には属さず、孤独で誤解を受けやすい人生だったようですが、不公平、不条理といったことに強く立ち向かう人で、徴兵検査で不合格であったにも関わらずコネを使って第1次世界大戦に従軍し、さらにこのときドイツ音楽を禁止するという仏音楽界の差別的な行為に反対し公開書簡を新聞に掲載するといった活動もしています。体調不良のため除隊し、戦後は1921年にパリ郊外のモンフォール=ラモリに家を購入、家政婦レヴロ夫人を雇って暮らします。レヴロ夫人は気性が激しくて、ご主人様と対等に言い合うほどですが、仕事はまめで、きれい好きなラヴェルには気に入られていました。あまりに整理されているので、「ラヴェルは下書きをしない」などと噂されたそうです。
 「ボレロ」はイダ・ルビンシテインの依頼で作曲されたバレエ音楽です。当初、ルビンシテインの意向で「スペイン風」の音楽を編曲することになっていましたが、作曲者の遺族との交渉などで手間取り、ルビンシテインが予告した開演までわずか3週間という状況になってしまいます。ラヴェルは「音楽のないごく単純な譜面」「誰もが会場を出たら口笛で吹ける」と自ら言った、ボレロの旋律を展開することにします。最初に提示されるフルート−クラリネット−ファゴットの一連の旋律(譜例3)は、その後調性も長さも全く変わることなく、管弦楽上の展開だけで厚みを増し、転調は最後の1回だけという、ともすれば単調で退屈となりかねない危険な展開を示します。しかしいま私たちが知っている通り、この展開はラヴェル一流の管弦楽法によって、変幻自在の曲想を呈し、飽きさせることなくクライマックスを迎えるのです。
 ラヴェルは、1932年にパリで乗ったタクシーの事故で後遺症が残り、5年後の1937年息を引き取りました。意識があるとき、最後に呼ばれたのは長年尽くしてくれた家政婦のレヴロ夫人でした。

(参考文献 M・ロザンタール「ラヴェル その素顔と音楽論」、中河 原理 監修「クラシック作曲家辞典」)

T.O.

譜例3


© 東芝フィルハーモニー管弦楽団 2004