曲目紹介

小山 清茂 管弦楽のための木挽歌


 小山 清茂は1914(大正3)年、長野県更級郡信里村に生まれました。小学校1年のときに電灯が点ったというこの村には、西洋音楽を体験させる機会はまるでありませんでしたが、隣家が神主で、毎朝太鼓を叩いて祝詞を上げているのを聞き、母親や近所の農夫たちの唄を聞きながら育ちました。村にあるメロディが演奏できる楽器は分教場の足踏みオルガンが唯一という環境ながら、村に嫁いできた人が持ってきた大正琴を触らせてもらい、兄が消防団のラッパ手になり、自身もハーモニカを買ってもらい・・で次第に楽器体験が重なって行きます。当時の少年らしく、軍人志望だったそうですが、ある日陸軍軍楽隊の演奏を聴き、軍人でも軍楽隊に入りたいと思うようになります。その後中学時代に短歌にのめりこみ、音楽より文学、と志望が変わるのですが、世界恐慌が起こって文学への道を諦め、長野師範(教員養成学校)に進みます。ところが人生分からないもので、この長野師範に東京音楽学校を出たばかりの山田 龍男という教師がいて、小山はたちまち音楽の世界に戻るのです。無理をしてピアノを購入、生活が苦しいので山田先生は無償で教えてくれたそうです。卒業後、小山は小学校の教師をしながら音楽を学び、8年間働いた後上京、都内で小学校の教師をやりながら音楽を続けます。東京都教職員管弦楽団に入ってシンバル、フルートを経験、アマチュアオーケストラゆえの下手さから何度も繰り返して練習するやり方は今も昔も変わらないようですが、小山はこの繰り返しで管弦楽の勉強が出来たと言っています。機会をとらえてしたたかに吸収する姿勢が窺えます。1944年、疎開先の福島で故郷の祭囃子を思い出し、「管弦楽のための信濃囃子」に着想、これが1946年の音楽コンクールに1位入賞、小山の名前は一躍有名になります。
 「管弦楽のための木挽歌」は1957年、NHKから依頼された音楽劇の題材から発展したもので、元は九州の民謡から採られています。この歌のメロディと、郷里で体験した子供たちのお囃子が曲中に盛り込まれ、小山の持論である「西洋音楽の壮麗な世界もすばらしい、だが私たちは血の底に流れる民族の音をもっと大事にしたい」が結実しています。曲は四つの部分に分かれた変奏曲になっており、小山自身の解説があるので、引用しておきます。

A:テーマ
深山幽谷で木挽職人が大鋸で材木を切っている。退屈紛れに即興で唄をうたっているが、やがて遠くから梵鐘が聞こえて日が暮れる。
B:盆踊り
山仕事を終えた職人が村里に帰ってこの唄をうたうと、そのすばらしい節回しは村中に広まって、ついに盆踊りになった。
C:朝のうた
職人のうたった唄は、村里で盆踊りになったばかりか、都会にまで流行し、そば屋の出前持ちが、自転車に乗って口笛を吹いて行く。
D:フィナーレ
民謡の持つ生命力のたくましさを称えた楽章。

この曲は、小山も参加した「新音楽の会」の第1回演奏会で演奏され、小山の代表作となります。その後も歌曲、管弦楽曲、オペラ作品を発表すると共に、作曲集団「田螺(たにし)の会」を結成し童謡の普及にも力を入れます。80歳の年、1994年に松本市南部に小山清茂記念ホールが開設されますが、現在は閉館され、建物は教会として使われています。
この曲は、小学校5年生の教材にも使われていて、聴いたことがある方々も大勢いらっしゃるかと思います。音楽室で聴いた音と、この場で視覚的な効果も含めた音楽とを比べてみるのも面白いでしょう。
(参考文献 小山 清茂「田螺のうたが聞こえる」)

T.O.


© 東芝フィルハーモニー管弦楽団 2004