曲目紹介

シベリウス カレリア組曲より「行進曲風に」


 ジャン・シベリウス(1865-1957)は幼い頃に父を亡くしましたが、身を寄せていた祖母の家にて叔母よりピアノの手ほどきを受けたのが音楽の道へ進むきっかけになりました。14歳のころ、ヴァイオリンに触れてこれに熱中、学業がおろそかになるほどでした。20歳でヘルシンキ大学の法律科に進みますが音楽への思いは断ちがたく、音楽院にも籍を置きます。結局のところ法律の勉強は進まず、法科は中退して音楽に専念します。1889年からベルリン、翌年からはウィーンへと留学するものの、内気で演奏者には向かないと考え、作曲家として進むことにします。ウィーン留学時代に、祖国フィンランドの抒情詩の登場人物をテーマにした「クレルヴォ交響曲」を着想します。当時、ロシアの保護下にあったフィンランドでは国民主義的なものが渇望されており、この曲は1892年春、帰国後の初演で大成功を収めます。そしてこの年の夏にはアイネ・ヤーノフェルトと結婚し、シベリウスは順調な人生を歩み始めます。新婚旅行でフィンランド東部のカレリア地方を訪問し、この地に多くいた吟遊詩人たちに会ったことが後年の創作の糧になったようです。翌1893年、カレリア地方の野外劇用の劇音楽として初演され、後に組曲として改作されたものが「カレリア組曲」です。組曲は「間奏曲」「バラード」「行進曲風に」の3曲で構成されています。「間奏曲」は長い前奏を持ち、ホルンのエコーを効果的に使ってフィンランドの雄大な自然を思わせる広々とした曲想を持っています。一転、「バラード」では木管楽器、弦楽器が情感豊かに歌うのですが、本日演奏する終曲の「行進曲風に」は浮き浮きした感じがする、明るい曲です。管弦楽編成は標準的なものですが、どこか透明感のようなものが感じられるのがこの作曲家独特の作風に思われます。
 さて、1897年には32歳の若さで国家終身年金が贈られ、シベリウスは悠々自適の生活が保証されます。が、一方「フィンランディア」(1900年)などでますます有名人になり都会での多忙な生活を送るにつれシベリウスは疲労し、1904年にヘルシンキ郊外ヤルヴェンパーのアイノラ荘に転居します。このころから国民主義的な曲想は後退し、交響曲など内省的な曲が増えるようになります。
年金や支援者の存在で生活は順調のように思えましたが、第1次大戦を境に経済の混乱から、頻繁に作曲する必要に迫られます。ようやく落ち着いたのは1928年(65歳)以降なのですが、シベリウスは改作以外には筆を取らなくなってしまいます。シベリウスが公式の場に姿を現したのは生誕70周年の記念演奏会が最後で、それから死ぬまでの27年間、アイノラ荘で隠遁生活を送ります。葬儀は国を挙げて行われ、後半生を過ごしたアイノラに埋葬されました。
(参考文献 日本シベリウス協会ホームページ、
ユッティ・フットゥネン「シベリウス 写真でたどる生涯」、
中河 原理 監修「クラシック作曲家辞典」)

T.O.


© 東芝フィルハーモニー管弦楽団 2004