アントン・ブルックナーは1824年に生まれ、1896年にその72年の生涯を閉じました。同世代の作曲家としては、ブラームス(1833〜1897)、ワーグナー(1813〜1883)、さらにはチャイコフスキー(1840〜1893)などが挙げられます。よく比較されるマーラーはこれよりやや後の年代(1860〜1911)の作曲家になります。
ブルックナーはこれら同世代の著名な作曲家達程には「広く」愛好されている、とは言えない面があります。その訳は、「長い」、「素人くさい」と言われますが、それは「ブルックナーの語り口」に関係があります。彼の曲は流れのよいメロディーが続く、というよりは断片的なフレーズを繰り返し続ける構造が多いのです。実はその1回1回が少しずつ色合いを変えて(たとえば調性を半音単位で変えていくなど)、さらに強さや楽器を変えて繰り返され、さながら画家が微妙に色を変化させたグラデーションを生かし、ひとつの作品を作り上げていくように音楽を進めていきます。つまりこの微妙なグラデーションが上手に表されないと本来の魅力が失われてしまうのです。最初にどのような演奏に出会うかでブルックナーの世界が見えるか否か決まってしまうこわい面があります。
ブルックナーの音楽は一言で言うと「神」を語るものと表現することができますが、本日演奏する第4番では、「神」というよりは「大自然」的なものを語る様に聴こえます。例えば、曲の冒頭ホルンが奏でるテーマは森の朝です。弦楽器の刻む和音が朝霧のようにたなびき、夜明けの光が刻一刻変化する様を細かな和音の変化で表わします。このような和音の変化はまさにブルックナーです。あるいは1楽章ほぼ真ん中(約9分)での金管のコラールとその下で弦楽器が分散和音で上昇する様は、ドイツの漆黒の森の上を高く飛んでいるかのようです。また、第3楽章は作曲者も述べているように「狩り」の躍動するイメージを軽快に表わしています。
ブルックナーは金管楽器の透明な和音の響きを巧みに生かし、「神」を表わすものとして用います。あるときは柔らかな光のように天を蔽い、あるときは厳しく審判を下すかのように襲いかかります。これに対峙するものとしての「民」は弦楽器が表わします(木管楽器はその間を舞う天使、でしょうか)。従って弦楽器はどちらかというと「嘆き」的なモノローグや民族舞踊的なテーマが主体です。第4番の第2楽章は最初にチェロがこのモノローグを語り、その後は(めずらしく)ヴィオラが主役となって切々と語ります。第4楽章では低弦のリズムと金管の下降音形が作る不安な雰囲気とともに始まります。この楽章では金管楽器のテーマは音の跳躍が大きく、より厳しい「神」として現れ、弦楽器のテーマとの対比が一段と大きく表現されます。この「神」と「民」が交互に現われ、最後に一体となって第一楽章冒頭のホルンの主題を奏でて完結します。この図式は他のブルックナーの交響曲でもほぼ同様ですので、これを覚えて頂くとブルックナーの世界の見通しが良くなることと思います。
なお、ブルックナーの楽曲は、何度も改訂されることが通例であったため、演奏も鑑賞も使用する版がまず注目されます。主要な版としては「ハース版」と「ノヴァーク版」が挙げられますが、第4番では両者の差はごくわずか(2,3箇所程度)であり、まずは版の問題は忘れて頂いても構いません。ちなみに本日の演奏はノヴァーク版です。
F.M.