曲目紹介

ベートーヴェン 交響曲第1番 ハ長調 作品21


 いろいろな作曲家の作品を聴き比べるとき、交響曲というジャンルは重要である。
 作曲家の側からすると、自身の作曲技法や流儀、芸術性など真価を比較されるものと考える人もいる。ベートーヴェンもその一人で十代のとき交響曲作曲を思い立って以来10年以上経って29歳の時、1800年に第1番を完成させている。後のブラームスなどは偉大なベートーヴェンとの比較を行い、切磋琢磨の末、はじめに作曲しようと思ってから20年もかかって43歳で第1番を完成している。
 現代の私達聴き手(あるいはむしろ演奏者か?)は、交響曲をその番号で、ベートーヴェンならベト1、ベト2、..ブラームスならブラ1、ブラ2、..などと呼んでいるが、会話で頻繁にでてくる曲名をきちんと言うと長いから省略して言っているというのもあるにしても、それが交響曲なのは交響曲がクラシック音楽のなかで代表ジャンルであると考えられているからのようである。
 尚、室内楽では、弦楽四重奏曲というジャンルが重要であり、ベートーヴェンの作品18の第1〜6番の弦楽四重奏曲はやはり1800年に完成されている。
 クラシック音楽史上でいわゆる古典派の最後の作曲家として登場するベートーヴェンがボンで生まれたのは洗礼日の前日の1770年12月16日とされている。祖父ルートヴィッヒと父ヨーハンはともに宮廷楽団で働く音楽家で、ベートーヴェンも幼少の頃より音楽教育の手ほどきを受けた。7歳でクラヴィコードの公開演奏会に出演し、天才少年としてデビューを飾った。その後1781年頃から師事したクリスチャン・ゴッドロープ・ネーフェによって鍵盤楽器の奏法とともに、作曲の指導もはじめられた。ボン大学在学中には国民劇場オーケストラでヴィオラも弾いていたそうである。1792年にハイドンがボンに立ち寄った時、自作のカンタータをハイドンに見せ、弟子入りすることが許され、ついにウィーンへ旅立つ。
 ハプスブルク家の帝都ウィーンで、ベートーヴェンは、ピアノ演奏と作曲で活躍を続ける。ナポレオン軍との戦時中にはオーストリー軍歌なども作曲し、名前だけはウィーンの市民階層までにも知れわたっていた。
 ピアノ協奏曲第1〜2番、ピアノソナタ第8番「悲愴」、歌曲「君を思う」など初期代表作も作曲した後、満を持してベト1は1800年に完成、4月2日、ウィーンにてベートーヴェン指揮により初演され、成功をおさめた。曲には今までの交響曲になかった新たな発想がふんだんに盛り込まれている。管楽器編成は拡大され2管編成(ホルンは2、トロンボーンはなし)となっている。

第一楽章 アダージョ モルト−アレグロ コン ブリオ

 主部の基調であるハ長調に対し、12小節ある序奏の冒頭は下属調の属七和音ではじまるところなどが斬新。第1主題はジュピター(モーツァルトの交響曲第41番)第1楽章第1主題を連想させる。

第二楽章 アンダンテ カンタービレ コン モート
 緩除楽章がソナタ形式で書かれている。第1主題はモーツァルトの40番の第2楽章を少し連想させる。

第三楽章 メヌエット:アレグロ モルト エ ヴィヴァーチェ
 メヌエット部は後年のスケルツォを彷彿とさせる軽快な曲。

第四楽章 アダージョ−アレグロ モルト エ ヴィヴァーチェ
 この曲のなかではハイドン風な気分をもっとも湛えている。

Y.M.


© 東芝フィルハーモニー管弦楽団 2003