曲目紹介

チャイコフスキー 交響曲 第六番 ロ短調 作品74「悲愴」



 悲愴、あまり使われる言葉ではない。この副題の意味を確認すべく、書店に行ってロシア語の辞書をめくってみることにした。そもそも、日本語で「ひそう」と言えば一般的に悲壮の方を想起するのではと思うのだが、これは「決意」という言葉をつなげて語られることがあるし、印象が限定されてしまう。そこで邦訳としては悲愴−悲しくいたましい、が選択されたのだと私は勝手に考えていた。それに、この曲の初演直後の出来事もまさに悲しくいたましい。1893年10月28日、この曲は作曲者自身の指揮により初演されそれは成功に終わっているが、チャイコフスキーは5日後の夕食時に飲んだ生水からコレラに罹患し、11月6日に死去。そしてこの曲の暗い終わり方や、彼が同性愛者であるという噂が、彼がスキャンダルを恐れて自殺したのだ、交響曲第6番は「遺書」ではないか、という話にまで発展する。この説はいささか考えすぎと思うのだが、当時から根強く残っている噂話で、そう簡単に決着は付きそうも無い...などと思いながらロシア語辞書を開き「パテティチェスカヤ」をみると、これが意外なことに「感動的」とある。これが最初。そして「悲壮」が次ぐ。末の弟のモデストとの会話中に命名されたこの副題、モデストが最初に提案したのは「トラギチェスカヤ(悲劇的)」で、これは容れられず、しばらくして再提案したパテティチェスカヤが作曲家の気に入る所となるわけで、この辺の事情から察しても、遺書とは考えにくいのである。
 ピョートル・チャイコフスキーは1840年、軍人、役人を多く輩出した貴族の家に生まれている。父イリアは学究肌だったようで、鉱山学を学び技師や教職関係の職を渡り歩いている。ピョートルは幼少から語学、文学に秀で、エリート養成校である法律学校に進み、優秀な成績で卒業し法務省勤務を始める(19才)。貴族サロンに出入りし音楽的才能を競ったりもするが本格的に勉強を始めるのは21才のとき、翌年ペテルブルク音楽院に発展する音楽教室においてである。音楽院には第1期生として入学、金銭管理がいいかげんで借金を抱え、さらには高齢の父(68才)が専門学校校長を解任されるなど、音楽で暮らしていくには心細い状況での出発であった。この多少無謀な決断はその後結婚という大きな節目でも行なわれており、さすがにこの愛のない結婚は2ヵ月半で終わっている。しかし最初の決断である作曲活動では、保守層から批判されることも多かった自説を曲げることなく、73年 交響曲第2番「小ロシア」、74年 オペラ「親衛隊」、75年 ピアノ協奏曲第1番と立て続けに成功を収め名声が確立。76年には生涯一度も逢わなかったという不思議な関係のパトロンであるフォン・メック夫人との文通が始まり、上記の結婚を除き生活は安定し傑作が生まれて行く。また彼はモスクワ音楽院での教職、音楽理論の翻訳、そして評論活動でも活躍し、ロシア音楽界の発展に大いに貢献したことも記憶しておいていいだろう。

第1楽章 Adagio−Allegro non troppo ロ短調−ロ長調
 序奏部。地の底から湧き出るようなファゴットの旋律が続き、ホルン、木管に受け継がれた後、主部の旋律は高音のヴィオラが担当する。細かい16分音符に支えられた激情に溢れた第1主題と、高弦で奏される優美な第2主題が対照的に扱われており、トロンボーンの咆哮が最高潮に達したところで終結に向かい、おだやかに終わる。

第2楽章 Allegro con grazia ニ長調
 ロシアの民謡にあると言われる5拍子の曲。第1楽章の雰囲気から打って変わって終始テンポは変わらないが、得意の変奏がいろいろな雰囲気を醸し出す。中間、不安げで壊れてしまいそうな部分を経て、主部が短く再現される。

第3楽章 Allegro molto vivace ト長調
 スケルツォ楽章に相当するとも言われる。8分の12拍子の細かい動きと、本来相容れない16分音符を基本にしたメロディが交錯する。メンデルスゾーン的軽快さが後半は行進曲風の雄大な曲想に変化して行き、最後は大きな下降音型を経て低いト長調の和音を決める。

第4楽章 Adagio lamentoso−Andante ロ短調
 衝撃的で難解な楽章であり、説明が難しい。冒頭の悲痛な響きを伴うメロディは、不安定さを強調するためか1拍ごとに第1・第2ヴァイオリンが交代で担当し、このメロディを受け止めるのはフルート3本で同時に奏する嬰ヘ持続音、などどこを取っても異色のオーケストレーションである。激しい部分と平和的な旋律が入れ替わり奏されるが、最後には1楽章冒頭の地底を思わせる低い持続音に帰っていく。

T.O.


© 東芝フィルハーモニー管弦楽団 2002