曲目紹介

マーラー 交響曲第1番「巨人」



 マーラーは1911年に死に至るまで、未完成の交響曲第10番を含め11の交響曲を作り上げた。シューベルト、ベートーヴェン、ドボルザーク、ブルックナーという名作曲家たちが交響曲第9番を作曲した後に死に至っている。マーラーはその「第9番のジンクス」を恐れ、9番目にあたる交響曲を番号なしの「大地の歌」という名で作曲しこの「ジンクス」を逃れようとしたが、結局この「ジンクス」からは逃れることができず、第9番を完成した後、第10番を途中にしてこの世を去ってしまった。本日演奏する「巨人」はそんな彼の最初の交響曲である。
 この交響曲は、ブタペストにて初演されたときは2部5楽章からなる「交響詩」として演奏され、その後ハンブルクでは各楽章に表題を伴った5楽章による"交響曲様式の交響詩"「巨人」として再演された。当時、第2楽章には「花の章」と呼ばれるセンチメンタルな美しい楽章が含まれていたのだが、後にこの楽章は削除され(筆者は非常に残念に思うのだが)、現在親しまれているような4楽章の交響曲となった。
 この「巨人(Titan)」というタイトルは、マーラーが愛読していたロマン派の作家ジャン・パウルの小説から採られたものであり、全曲に満ちている"英雄的・情熱的な愛"の姿はこれに由来していると思われる。この小説は主人公が次第に成長して行く過程が描かれている教養小説であり、日本語的な「巨人」という言葉に感じられるイメージとはかけ離れているかもしれない。後にこの交響曲からは「巨人」というタイトルは取り払われてしまったが、現在でもマーラーの交響曲第1番は「巨人」の名で親しまれることが(とりわけ日本においては)、少なくない。
 本日演奏される「巨人」は、上で説明した「花の章」を含む5楽章版ではなく、従来から演奏されている4楽章版である。

 第1楽章 − 終わりなき春 −
 冒頭は弦のイ音による7オクターブにわたるフラジョレットで始まる。この冒頭は「自然」を感じさせ、同じく「自然、原始」のイメージで始まるワーグナーの「ラインの黄金」の冒頭(こちらはコントラバスによる変ホ音)を思い浮かべてしまうのは筆者だけだろうか。夜が明けるように序奏が始まり、カッコウの声がきこえ、そして遠くではファンファーレも聞こえる。ホルンによる穏やかな信号が聞こえると、そのままゆったりと主題へとつながって行く。この楽章は、夜明け前の森の中に始まり、夜が明け始めると森の木々や鳥、動物たちが目を覚ましはじめ、そして太陽が少しずつ昇って行き森の中に日がさし込み、今日一日が始まって行く…。そんなイメージを思い起こさせる心地のよい楽章である。

 第2楽章 − 帆をいっぱいに張って −
 "帆をいっぱいに張って"という言葉に感じられるような躍動感をあふれる序奏に始まり、やがて活発な主題へと進んで行く。メランコリックにゆったりと流れるトリオが終わると、躍動感あふれるスケルツォが再現され、勢いよくこの楽章をしめくくる。第1楽章が「夜明け、一日の始まり」とイメージするならば、この楽章は「太陽の下、順調な旅路、力強い足取り」とでもイメージできようか。

 第3楽章 − 座礁して −
 民謡「マルティン兄貴」をグロテスクな短調にしてカノンで展開してみせた葬送行進曲。まどろむようなやすらぎを持つトリオを含んでいる。マーラーはこの葬送行進曲を、一枚のエッチング「狩人の葬送」から着想したとも言われている。ゆったりと進む葬送行進曲の中に、どこかおどけたようなあいづちが打たれたり、派手にはしゃいだような騒ぎによって行進曲が大きく乱されるという独特な葬送行進曲である。

 第4楽章 − 地獄から楽園へ −
 「深く傷つき絶望した心の突然の暴発」であるこの楽章は、シンバルの一撃で始まる。まさに「地獄から」の幕開けである。激しく、そしてどことなく暗さをもった旋律は、中間部の唄うように奏される美しい主題に引き継がれる。この中間部の憧憬を秘めた旋律はこの交響曲の中で最も美しいところである。曲は展開部に入り、「楽園」への道程が示されたような「希望」「期待」をイメージさせる。最後は高らかにファンファーレが奏され、やがてホルン奏者たちにより「楽園」のイメージが力強く奏される。曲は楽園への期待を胸に、一気にコーダへと驀進して行く。 本日の演奏で、この交響曲が表現しようとするストーリーを心の中に感じ取って頂くことができれば幸いです。

T.M.


© 東芝フィルハーモニー管弦楽団 2002