第1楽章:アレグロ・コン・ブリオ
第2楽章:アダージョ
第3楽章:アレグロ・グラチオーソ
第4楽章:アレグロ・マ・ノン・トロッポ
ドヴォルザーク(1841-1904)はスメタナと並びチェコ国民音楽の生みの親として知られています。2人とも19世紀半ば以降に活躍した作曲家ですが、<<ロシラの音楽の父>>と呼ばれるグリンカやポーランドのショパンなどはドヴォルザーク達よりも前の時代に活躍していたこと考えると、チェコの国民音楽はヨーロッパの他の国々と比べて比較的遅れて誕生したと言えます。
中世以降のチェコでは、隣国のドイツとの音楽的交流はもとより、イタリアからはルネサンス文化が導入されており、決して音楽的に後進国ではありませんでした。これは当時のチェコが、神聖ローマ帝国に巨従する一王国であったとはいえハンガリー等の国々と同様に共通の君主(帝国皇帝)の元で緩やかな主権を保っていたこと、また帝国の収入のかなりの部分を占める程に豊かな地域であったことと無関係ではないと思います。しかし、「30年戦争」によってチェコは経済・文化両面で致命的な打撃を受けます。1620年、プラハ郊外での「白山の戦い」が嚆矢となり文字通り長期間続いた戦争はチェコを惨めな姿に変えてしみました。耕地は荒れ果て、人口の5分の1は減少したと言われています。けれども、もっと重大なことはこの戦争によってチェコは主権を失い、帝国(ハプスブルグ家)に直接統治されるようになったことです。宗教的弾圧、文化的抑制、ドイツ貴族の入植が行われ、チェコ独自の文化が失われると共に以降200年近くに渡ってドイツ文化による支配に甘んずることになります。
このチェコにおける暗黒時代の終焉はようやく19世紀の半ばにやってきます。1806年の神聖ローマ帝国の崩壊後オーストリア帝国に支配されていたチェコにも、1867年オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立(これによりハンガリーが自主独立を獲得する)を契機に民族主義の嵐が吹き荒れます。工業国としてめざましい経済発展をとげ急激な人口増加ともあいまって力をつけたチェコ人と、支配層であるドイツ人との人種的対立が日増しに緊迫していったのもこの頃です。これらの民族運動を救い、活発化する方向にむけたのがまさに音楽でした。
ドヴァルザークの交響曲第8番は1889年(ドヴォルザーク48歳)にプラハで完成されました。まさにチェコの民族闘争が佳境の時期にあたります。彼も自分の音楽家としての使命が、被圧迫民族のチェコ人が文化的にいかに優れた力を持っているかを国外に示すことにあると感じていたようです。事実、交響曲第8番ではこれまでの作風、即ちワーグナーおよびブラームスの影響が表に出ず、純粋にチェコの作曲家ドヴォルザークそのものの音楽となっています。そして、この交響曲第8番がイギリスでの演奏会で大成功を収めたばかりか、ケンブリッジ大学より授与される博士号の学位論文の代わりに自らの指揮で演奏を行う名誉を得たのは彼にとって面目躍如たる事だったのではないでしょうか。
チェコは第一次世界大戦後に念願の独立を果たします。もちろん支配国であるオーストリア=ハンガリー帝国が大戦で連合国に敗れ崩壊したことが一番の原因です。連合国の主力であるイギリスおよびアメリカ合衆国がドヴォルザークと深く関係のある国(ドヴォルザークは交響曲第8番の成功後間もなくアメリカ合衆国に渡り、ニューヨークのナショナル音楽院院長を数年間努めた)であったという事実に、なにやら不思議な縁を感じざるを得ません。
T.S.